ホテルのロビーピアニスト体験記
プロミュージシャンへの道のり、ピアノ弾き語りの魅力、ホテルのロビーピアニストとは、東南アジアへ演奏旅行について紹介します。

プロミュージシャンへの道のり

2012/12/12

私が13歳になる頃には、盆踊りの矢倉で太鼓を叩いていました。町内だけでなく、叩き手のいない隣町や遠方からも迎えが来るようになりました。夏休みの間は、毎晩祭りを掛け持ちして太鼓を叩いていたのです。

矢倉の天辺から見渡す風景は心地良く、視線を感じる興奮とバチ捌きを披露できる快感があります。次から次に運ばれてくる豪華な料理は食べきれず、帰りには折り箱に詰め込んでくれます。帯に挟みきれないほどの祝儀袋は、3日で大人の月収ほどになり母親に喜ばれました。やがて中学校に進むと、校内ではビートルズ、ベンチャーズ、アニマルズ等が人気でした。私もはじめて聞く西洋の音楽に感化され、校則ギリギリまで長髪にした記憶があります。

休日の或る日、近くにある多摩川の河川敷に行くと大音響が聞こえてきました。今では死語の「エレキバンド」が練習をしていたのです。太鼓とはまったく違うドラムは魅力的で、両手両足を使いリズムを刻んでいます。お腹の底に響くような、重みと厚みの有るベースの低音。機械的に音を歪ましたファズと言うェファクトを使用したギターの旋律。何かを訴えかけているような、意味の判らない叫び声のボーカル。頭の中をグリグリ掻き回されたような強い衝撃を受けました。

バンドが休憩するとリーダーが私に近寄ってきて、「お前は、太鼓屋の二代目だろう」と言います。後ろには大型のバイクが何台も留めてあり、はっきり「暴走族」と判っていました。「あははは、怖がらなくていいよ、お前のお父ちゃんは家で働いているんだ」と言います。何と親父が勤めている建設会社の息子だったのです。しかも同じ中学の先輩だけでなく、学校の番長グループのバンドだったのです。

やがてドラムを担当していた人が肺炎にかかり、私がドラムを担当するようになっていきます。横浜の黄金町にあるディスコ、渋谷にあるライブハウス、川崎のディスコなどで演奏を始めます。演奏が終わると休憩中の楽屋に不良たちが遣ってきて、時には喧嘩になる事もありました。いつも、「お前は、手をだすな!端っこで小さくなっておけ」と言われていました。

先輩達が卒業するとバンド活動も少なくなり、私も音楽から離れていきます。或る日の事、バンドマスが自宅を訪ねてきました。「アメリカ軍基地の将校クラブでドラマーを探しているから、着いて来い!」と言います。バイクの後ろに載せられて横浜のベースキャンプに行きゲートで厳重なチェックをされ、許可を受けて基地内の将校クラブに向いました。将校クラブにはステージがあり、日本では入手できない高価なドラムやギター、アンプがあります。店内のサイドにはスロットマシーンが置かれ、将校は自由に換金できるそうです。クラブのボスの隣に日本人がいて、私にドラムを叩いてみろと言います。バンドは全て日本人で、何も判らないまま即興で叩いたら、何とOK!でした。

新宿の三幸町に1DKのアパートを借りてくれて、月給が15万円です。当時の大卒が1万5千円くらいですから、約10倍の収入になります。しかも、将校クラブでは飲み放題!食べ放題!いつも牛が1頭吊り下げられて、好きな部分を指差すとステーキにしてくれます。スロットマシーンは誰でも勝つ様に設定され、休憩時間だけでも2千円ほどになります。

将校がアメリカに帰国する時は、電化製品や車を置いて帰るので、私に無料でくれるのです。プロダクションは、2トントラックを借りて宿舎まで行き、空っぽになるほど貰って帰ります。しかし、若くして蜜の味を覚えると、必ず後からしっぺ返しが来るんです。本当のプロへの道は、挫折と葛藤の中から始まります。

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ライタープロフィール

Jack天野/男性/年齢:50代/セブ島在住/13歳より横須賀の将校クラブでドラマーデビュー、20歳でハモンドオルガン奏者、その後ピアノの弾き語りとしてファイアットリージェンシーと契約し東南アジア各国のホテルロービーピアニストを務めました。ちょっとマイナーな部分も含めて、楽しい記事を書きたいと思います。宜しくお願いします。