ホテルのロビーピアニスト体験記
プロミュージシャンへの道のり、ピアノ弾き語りの魅力、ホテルのロビーピアニストとは、東南アジアへ演奏旅行について紹介します。

音楽との出会い

2012/12/11

私が音楽と出会ったのは、昭和の風景が今でも印象に残っている、小学校1年生の夏休みでした。セピア色の陽が暮れていくと、広場から太鼓の音が町内に響き渡ってきます。楽しみにしていた、年に1回の盆踊りが始まるのです。

職人の手が器用に動いて、鳥や蝶、そして昆虫を作りだしていく飴細工。竹の先をクルクルと回すだけで、大きく雲のように広がっていく綿菓子。小さなプライパンにザラメを入れて掻き回し、スッと持ち上げると膨らんでくるカラメル焼き。当時人気があった赤胴鈴の助、月光仮面、鉄腕アトムや鉄人のお面。香ばしい香りが漂う手焼き煎餅、定番の金魚すくい等、たくさんの出店が並んでいます。裸電球が吊るされた広場の中央には、三段に積み上げられた矢倉が建っています。矢倉を囲んで人々が何重にも輪になり、矢倉には婦人会など選ばれた人達が踊っています。天守閣のような3段目には、大きな太鼓が添え付けられています。叩き手は上半身裸で、バチを打ち込むたびに汗が飛び散り、身体から湯気が立ち昇っていました。

私の手を握っているお母さんは、浴衣ではなく割ぽう着のまま輪の中に入って行ったのです。私は白い短パンと肌着のままでしたが、お母さんと一緒に踊りだしました。相馬盆唄、花笠音頭、炭坑節、斎太郎節、ソーラン節、草津節、真室川音頭・・・今でも心の記憶として鮮やかに残っています。暫くすると、お母さんが太鼓の叩き手と何か話しています。ジッと上を見上げましたが、裸電球がまぶしくて誰だか判りませんでした。

「ねえ、あの人誰?」とお母さんに聞いたら「やだねえ、お父ちゃんじゃないの」と言います。えええ!いつも夜遅くまで仕事をして、朝起きるともう仕事に出かけているお父ちゃんでした。

お父ちゃんが矢倉の上から降りてきて、私をひょいと抱えながら矢倉に登っていきます。矢倉の上には、豪華な料理と一升瓶が沢山並んでいました。矢倉の最上部は女性の立ち入り禁止で、町の顔役と世話人だけが許されている特別な場所です。

もちろん子供も上る事はできませんが、私は叩き手の息子として特別扱いされました。お父ちゃんは、バチの握り方、腰の入れ方、音頭のとり方、そしてバチ捌きを教えてくれたのです。

私が音楽と出会ったのは、ピアノやエレクトーン、そしてギターではなく、祭りの太鼓だったのです。町の顔役や若い衆、テキヤ衆に可愛がられ、世話役からも太鼓の二代目として大事にされました。一般とはちょっと違う音楽の出会いは、私の人生を大きく変えて行く転機になっていったのです。波乱万丈、天国と地獄を行ったり来たり、がははは・・

蛙の子は蛙と言いますからねえ。

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ライタープロフィール

Jack天野/男性/年齢:50代/セブ島在住/13歳より横須賀の将校クラブでドラマーデビュー、20歳でハモンドオルガン奏者、その後ピアノの弾き語りとしてファイアットリージェンシーと契約し東南アジア各国のホテルロービーピアニストを務めました。ちょっとマイナーな部分も含めて、楽しい記事を書きたいと思います。宜しくお願いします。