歴女の歴史を楽しむ旅
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奈良県/聖徳太子の大ファミリー〜中宮寺と法隆寺の周辺で〜

2010/05/08

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法隆寺の隣にある中宮寺。聖徳太子の母・用明天皇の皇后の屋敷(中宮)のあとに、太子が母君の冥福を祈って建立された寺だと伝えられます。以来、約1400年。日本最古の尼寺だといい、大寺院ではないのですが、代々皇女や公卿の姫が門跡をつとめてきたという、格式の高さと優雅さを備えたお寺です。

ご本尊は、優美な菩薩半跏思惟像(如意輪観音ともいわれる)。アルカイックスマイルで、頬に指をつき、片足を組んだような形です。太子の妃の一人、橘大郎女(たちばなのおおいのいらつめ)が、太子の菩提をともらうために刺繍したという、「天寿国曼陀羅繍帳」もここにあります(展示品はレプリカ)。

太子には4人の妃がいました。「正室」クラスが、推古天皇の皇女・莵道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)。次に、どちらがクラスとして上になるかは難しいのですが、推古天皇の孫にあたる橘大郎女と、時の権力者である蘇我馬子の娘・刀自古(とじこ)郎女。そして、身分は低いながらも、太子がもっとも愛したとされる、膳(かしわで)氏の娘・膳大郎女。膳氏は、その名のとおり、天皇家の「膳」=食事をつかさどる一族だったようです。古代の食器は柏の葉っぱだったので、「かしわで」という言葉になったとか。

聖徳太子は母君が亡くなった翌年、妃の一人に「今夜、自分は死ぬ。お前も一緒に死ぬことになるだろう」と予言し、本当にそのとおりになった……という伝説があります。

すると、死因は流行り病なのか、それとも……? と、またまた謎が謎を呼ぶのです。そして、愛する妃とともに葬られたという、その妃がだれなのか。膳妃説が有力ですが、これも決定的な証拠はないようです。

皇女との間に子どもはなく、蘇我妃に4人、橘妃に2人、膳妃に8人の子どもをもうけましたが、後に一族滅亡(蘇我妃腹の山背大兄王と膳妃腹の王女が結婚し、2人の子どもももうけていました)。一族24人、宮殿に火を放ち、塔のなかで自決したのです。妻問い婚の時代に、聖徳太子の子どもたちは、全員行動をともにしていたのでしょうか。

日本で一番有名な「偉人」でありながら、いや、だからこそなのか、聖徳太子は「謎」なのです。

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ライタープロフィール

オオタクーミンさん/女性/東京在住、もしかして「鉄子」と「歴女」のさきがけだったのかも知れない、ぎりぎりアラフォー世代のライターです。小さいころから、愛読書の1つが時刻表で、プライベートの国内旅行には、たとえ北海道を旅するのにも、飛行機を使うなんてことは、はじめから考えない、まったく日航を応援してない日本人です。

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